色んなことを雑に書くブログ

大学3年生女子が色んなことについて雑に書きます

「海がきこえる」とは何なのか

これまでに「海がきこえる」が受けない理由を2つ書いた。

1にスタジオジブリという先入観があるということ、

2にラブストーリーと見せかけてラブストーリーじゃないということ、とした。

まるでアンチ「海がきこえる」のようだが、私は本作の大ファンである。

ということで、今回はこの作品の解釈を私なりに考えて魅力を伝えたいと思う。

 

私は「海がきこえる」を主人公の成長と未来への前進を描いた作品だと感じる。

 

まずポイントになるのが回想パートの描かれ方である。

主人公の森崎の周りで起こるのは本当に何気ない出来事である。

だが、起こったこと全てが細かく事件として描写されるので本当に重大な出来事のように感じられる。

これは学生時代特有の感覚ではないだろうか。

学校や目に見える範囲だけが世界だったあの頃の感覚である。

大したことじゃなくても緊張したり、むしゃくしゃしたり、反抗したくなったり、この世の終わりのように思えたり。

誰かの何気ない言葉やふるまいがとてつもなく重要な意味を持っていたあの頃だ。

回想パートがこうして描写されているということは、森崎自身がこのように回想していることである。

つまり大学生の森崎はいまだに高校生の森崎の感覚から抜けられないでいるのだ。

 

それには理由がある。

高校時代の森崎にとって特に重要人物であった、友人の松野と里伽子が喧嘩別れになったままだったのだ。

森崎の記憶の中では彼らは高校生のまま。

だから高校時代にまつわるあれこれに関してだけは時が止まったままなのである。

 

そんな過去にしこりを抱える森崎は、松野と再会したあたりから徐々に変わる。

久々に再会し、話せなかったことを話す2人。

高校時代は深刻に感じていたことも、時を経た今では話せるのだ。

同窓会シーンもまたいい。

クラスメイトだった女の子が里伽子とばったり会ったと嬉しそうに話す。

高校時代、その子と里伽子は仲が良くなかったはずなのに、今じゃそんな過去も笑えるようだ。

みんなが一緒に大人になっていることを森崎はじわじわと体感するのである。

クライマックスに向けて過去がどんどん現在になっていくこのあたり、私は本当に好きだ。

 

そして同窓会後の高知城を見上げるシーンで、森崎は自分が里伽子を好きだったのだとはっきり認める。

昔の自分を冷静に見つめ、結論付けたのである。

もっと里伽子と話したかった、彼女を好きだった、それだけだったのだと。

森崎が高校時代に終わりを告げた瞬間である。

彼はこの時に本当の意味で大人になったのだ。

 

で、本当のラスト。

森崎は駅のホームで里伽子に偶然再会する。

やりたい放題で強気だった里伽子が、ちょっとお姉さんっぽくなって登場。

これからまた新しい物語が始まるぞ...と未来を予感させる終幕になっている。

 

と、こんな感じで私は解釈している。

溜めて溜めて...からの高知城のシーンはいつもグッとくる。

森崎くん、やっとたどり着いたな!っていう。

あと里伽子が自分の会いたい人について「お風呂で寝る人なの(森崎くんのこと)」みたいなことを言っているシーンも好きだ。

私はこの作品のラブストーリー性を否定しているけれど、このシーンに限ってはキュンとするものがある。

 

これ以上語ると収拾がつかなくなるのでここでストップしておこう。

月9的なラブストーリーが見たい人や、俺・私は過去なんてとっくに忘れちまったぜ!という人には向かないのかもしれない。

一方で、森崎くんみたいに高校時代(学生時代)への思いがいまだに残っている人にはおすすめです。

爽やかな気分で未来への一歩が踏み出せるはず。

 

「海がきこえる」が受けない理由2

海がきこえる」が受けない理由1に続く理由2がこれ。

 

2. ラブストーリーじゃない

 

魔法もない、不思議なキャラもない、ということが分かったら次に注目するのはストーリーだろう。

 

主人公の森崎拓は大学生だが、主たるストーリーは彼の高校時代の思い出である。

彼のほか、彼の友人である松野豊と都会から転校してきた武藤里伽子を中心に物語は展開する。

確かにこの3人は三角関係のような状態になったり、途中喧嘩があったりと青春ラブストーリー感は満載なのだが、いわゆる月9的な展開はないと言っていい。

 

まず里伽子の性格にかなり難があるのだ。

ヒロイン界(?)ではまれに見る横暴なふるまいの数々。

松野くんや森崎くんが彼女に惹かれることに、恐らく多くの視聴者は共感できないと思う。

たぶんめちゃくちゃムカついたりする人もいるはず。

さらに主人公である森崎くんが彼女を好きなのかどうかも最後の最後まで明確には示されない。

そうして大部分を占める回想パートは誰かが誰かとくっつくこともなく終わる。

お互いの手と手が触れて....なんてシーン、一切なし。

ラブストーリーと見せかけて、ラブストーリーに必要な要素がすっかり抜けていたりあいまいだったりするのだ。

だから「キュンキュンするぞ~~~~!!!!」みたいなテンションで見ればやっぱりがっかりするのだ。

 

じゃあ、ラブストーリーじゃないとしたら何なのだろう。

それはまた別の記事で書きたいと思う。

 

 

 

「海がきこえる」が受けない理由1

海がきこえる」が大好きだ。

これは1993年にテレビ放送された、知る人ぞ知るスタジオジブリのアニメ作品である。

(なぜか)2011年にも放送されたのでタイトルだけなら記憶があるという人もいるかもしれない。

その2011年当時高校生だった私は嬉しくて友人に宣伝しまくったのだけど、皆の感想がいまいちだったのを覚えている。

だいたい「なにが言いたかったの、これ?」といった反応だった。

その時はがーーん....、と思った。

しかし最近になってこの作品があまり受けなかった理由が分かった。

今回はそれについて書いていこうと思う。

 

1.スタジオジブリという先入観

 

スタジオジブリといえば、トトロ、もののけ姫千と千尋の神隠しハウルの動く城.....などなど多くが不思議な世界観を持った作品である。

だからモデルになった場所を訪れる人がいたり、キャラクターごとにファンがいたりするのだろう。

また、命とか人生とか人間とか、そういう壮大なテーマ見出そうとする人が多いと思う。

ゆえに公開から長い月日が経った作品であっても、その解釈において議論が尽きることはない。

 

正直に言って「海がきこえる」にはそういった皆が他のジブリ作品に期待するような要素は一切ない。

舞台は日本の高知県。普通の街並み。登場するのは普通の高校生。

主人公で大学生の森崎拓が帰省途中の機内で思い返している自らの高校時代の思い出がストーリーの大部分である。

だから、「耳をすませば」のテンションでこの作品を見ればがっかりもする。

夢のような猫の置物など出てこないのだから。

ちなみに制作には宮崎駿監督は一切関わっていないらしい。

だからなのね、という感じである。

 

ということで、「海がきこえる」にチャレンジしたい人にはまずこの「ジブリという先入観」を外してもらえたらと思う。

 

 

次の記事に続きます。

ムネリン、お疲れ

ムネリンがソフトバンクから退団した。

自律神経の病気がきっかけらしい。

「心と体の回復につとめます。」との発言からも明らかなとおり、身体的・精神的にダメージを受けているみたい。

「あんなにポジティブで元気なムネリンが....。」という反応多数。

 

正直に言って私はあまり驚かなかった。

ムネリンのようなパターンはそう少なくないはずだからだ。

 

すごいもの・ことの裏には必ず相応のお金なり努力なり研究があると思う。

ムネリンのあのポジティブパワーはわざわざ人が誰かに話したくなるほどのそれだった。

世界中の人が笑顔になって元気になった。

びびっちゃうような「すごい」パワーだった。

それだけに、その裏にはやはりびびるぐらいのものすごい努力があったんだと思う。

試行錯誤があったんだと思う。

そんな風に努力でポジティブを生み出していく作業は問題集を解くのに似ている。

分からない問題にその都度対処していく、そんな感じ。

人生の中でその時々違ったストレスを受けて、それに勝てるような対処法を自分で考えて身に着ける作業だ。

だいたいの場合はそれまでの経験を組み合わせてうまくやるんだけど、

その方法ではどうにもできない問題にぶち当たったりすることがある。

ちょっと待って、今考えてるから...って言いたいところなのに、時間も仕事も周りの人間も待ってはくれない。

そうすると体や思考のテンポみたいなものが崩れてきて、本当にどうしようもなくなってくる。

ムネリンがそうかはもちろん断定できないけれど、こういうプロセスで心身のバランスを崩す人は多いと思う。

ポジティブが努力や研究のうえに成り立つものであるがゆえに起こるのだ。

だから私は元気な人が突然落ち込んだりするのを不思議には思わない。

 

それなら天性のポジティブマン以外はポジティブを目指すべきじゃないということか?と思われるかもしれない。

私はそれも違うと思う。

本当に生まれながらのポジティブマンなのであれば、それは素晴らしすぎる才能なのでそのまま大事にしてください、と言いたい。(あんまりいないと思うけど)

ただ、努力しないとポジティブになれない人にも私はそのままでいてほしい。

なぜならそう頑張ろうと思える気持ちや環境自体が稀であり価値があるから。

そしてたとえそれが小さな壁だとしても、乗り越えた経験は武器になるからだ。

武器がたくさんあればあるほどたくさん敵をやっつけることができる。

そうすればやりたいことがたくさんできる。

 

ムネリンにはとりあえずファンに遠慮しないで自分のことばっかり考えていてほしい。

そして今を乗り越えた先で好きなように幸せに生きてくれたらいちファンの私としてはうれしい。

たくさんの元気をありがとう、ムネリン。

これからもずっと応援してるよ!

 

 

蛙化現象はつらいよ

みなさん、突然ですが「蛙化現象」という言葉をご存知でしょうか。

 

かなりざっくり説明すると、

「好きな人に好かれるとその人が気持ち悪くなっちゃう」現象。

一般的には女性に起こるとか。

論文としても発表されています。

研究対象になるってことはつまり一定の人にこういう現象が見られるっていうことですよね。

 

で一体なぜ私がこの話題に触れるかというと、私にも「蛙化現象」が起こっているからなのです。

 

ありがたいことに私にも遅れた春がやってきたものの、どうも思ったよりハッピーじゃない。

というよりむしろ、気持ち悪い.....。

相手が自分を好きだとかいう状況や、自分が「彼女」という席にいること、カップルらしいトークも、それに対して自分が「えへへ」みたいな笑い声をあげることも、何もかもがおかしくて気持ち悪い。

元々好きだったのに、だ。

「そのうち慣れる」と思いこんだり、

「好きな人と付き合えてるなんて幸せ!!!!!!」だとか書き出して無理やり暗示をかけることでなんとか最初の衝撃みたいなものをやり過ごそうとしたが事態に変化はなかった。

「こういうことにあんまり慣れてないんだ」と相手に思い切って言ってみようとも思ったが、まずそこに辿りつけない。

連絡をとろうとすると体調が悪くなるのだ。

緊張しちゃってドキドキ!という類のそれではなくて、憂鬱が一気に迫ってくる感じ。

 

これいかにということで「好きな人  気持ち悪くなる」で検索するとすぐに「蛙化現象」に関するページに辿りつけた。

その他上記の現象には言及せずとも「好きな人が気持ち悪くなる」ということについて触れた記事がいくつもでてきた。

それらを参考に考えてみたところ、

原因は私のアダルトチルドレン的傾向と小さな頃に育まれて今に続いた男性への抵抗感にあると結論づけることができた。

男勝りだから、私はこういう性格だから、と思っていたけど原因を見つけたら直したい!と思った。

なぜってやっぱり惜しいことをしている気がするからだ。

人の好意を素直に受け取れないってすごく悲しい。

 

今回のことは結構つらかったけど、私のこれからを変えるきっかけになったと思う。

そういう意味では彼にはありがたい気持ちでいっぱいだ。

ただ私がこの問題を克服するには相当の時間がかかると思う。

ああ、彼とのおしゃべりさえお腹が痛くなるような今、これからどうしよう。

誠実でありたいとは思うが.....。

 

 

 

悩ましい日々はいつまで続く...?

怒られた時にすぐ泣かない方法

私は誰かに怒られたり、注意されたりするとすぐに涙が出そうになるタイプである。

別に泣いて許しを請おうとしているわけじゃないし、

泣けばそれでいいなんてまるで思っちゃいない。

泣いて許された経験ばかりで生きてきたわけでもない。

ほとんど条件反射的に涙があふれそうになるので結構困っている。

色んな本を読んでみたり話を聞くとこれには小さい頃の経験が関係しているようなのだけど、過去に戻ってやり直すことなどできるわけもなし。

でもこのままでは絶対に良くないと感じているので、

自分なりにこの現象を分析して改善させてみようとして今も頑張っている。

具体的には「怒られる」ということがどのようにして私の感情のキャパを超えさせているのかを考え、そこから改善法を編み出した。

本記事ではそれについて書こうと思う。

 

1.怒られた時のファーストインパク

今までのことを思い返してみれば「なぜ自分が怒られているのか」よりも、

「あっ、○○さんに私は怒られている....!」という、ただこれだけが最初に頭にあった気がする。

「怒られているという事実」が何よりのショックなのかもしれない。

その瞬間、それ以外についてはたいして何も考えていなかった気がする。

これがまず良くない。

だから私は一呼吸して最初のショックをなるべくスルーし、

「なぜ怒られているのか」、そして「それにより困っている相手」を思うことに努めている。

 

2.私にとっての「怒られる」とは

私は無意識に、「怒られる」ということを世界の終わりレベルの絶望のように感じているらしい。

また、普通に接してくれていた人が突如怒りモードに突入することに恐れを抱いているらしい。

でも、冷静になって考えてみればそんなもの日常の一コマとしてはありふれているし、人間なら誰だって場合によっては怒りを持って接してくる。

きっと同じ瞬間に同じように怒られている人は日本中にいる。

怒られることは大事件なんかじゃない。

どうせその失敗なんて周りは一週間後には忘れているし(みんな一人の人間に長いこと構っている暇なんてない!)、どんな気にしいの自分でも一年後には確実に忘れているぐらいのもののはずなんだし。

これに対処する時に思うのは、「こういうこともあるのだ」ということ。

人間ばかりの社会で何か役割を担えばたまにゃ失敗して怒られることもある。

こういうこともあるのだ、と。

 

3.「怒られている自分」を見たくない!

別の自分Bとして怒られる自分を見る感覚が私には常にある。

恥ずかしくて惨めで自分が世界一バカに思える。

しかしやっぱり冷静になってみると、これもまた利口な思考ではないと分かる。

怒られて済むぐらいのささいなミスが自分の価値を無にすることなど絶対にありえない。

そんなことで人の価値は簡単に上がり下がりすることはないと思う。

えらい先生も何かの本でそう言っていたし、やっぱりそうなんじゃないだろうか。

だから私はそういう風に思っておくことにしている。

 

 

とこんな感じで、すぐに泣かない自分になろうと努力しているしだいである。

これができたらあとはもう失敗を繰り返さないようにすればいいし、

家で泣きたくなったらそれはもう別に泣いていいと思っている。

あとはほんのちょっと、「なにくそ!」と腹の底で鼻を鳴らして笑い飛ばす気持ちが持てたら完璧でしょう。

 

 

新しいバイトを始めようかと思ってるんで覚書的に記事にしてみました。

飲食店+友達の紹介ってことでかなり今からビクビクしてるので。

しかも上のほうで「怒られた時は」って何回も書いてるけどのんびりしたバイトしかしてこなかったんで言うほど他人に怒られたことってなくてめちゃくちゃ怖いっす。

友達に注意されたりしたらおそらくまた地獄級に落ち込むんだろうけど、自分で書いたことを思い出して頑張ります。

というか、まずは注意されないようにするのが先か。

とにかく同じような皆さんも一緒に頑張りましょう。

真面目に気楽に!

「おかま」は死語になりつつある

今日、こんなニュースをみた。

 

www3.nhk.or.jp

 

LGBTに当てはまる子供がいるのにも関わらず「おかま」という言葉を使ったことが問題らしい。

それより私は「おかま」という言葉のチョイスそのものがもうおかしいと思う。

 

「おかま」って言葉、日本では馴染みのある響きである。

日常会話でもテレビでもよく聞こえていた。

ただ最近ではこの言葉が差別用語ではないかとの議論も盛んで、多くの人々、もちろん当のLGBTに該当する人も声をあげている。

確かに「おかま」っていう言葉が使われる時って、

男性の動きや声が女性っぽいのをバカにしたり笑ったりする時がほとんどで、

この言葉が対象を「ネタ」としてはたらかせているのは明らかである。

こういうことでは差別用語だとみなされても仕方ない。

傷つく人がいるのも分かる。

ということで最近ではテレビ等メディアで「おかま」が聞こえることは少なくなってきている。と思う

 

LGBTの存在が世に広まる前まで、彼らはそうでない人々にとって「なんだかわけのわからん変なやつ」だったのだろう。

しかし近年彼らとそうでない人々の関わりがより自由に、双方向になったことでその認識は変わりつつある。

彼らが同じように息をし、食べている実感は、この10何年くらいの間にじわじわと高まっていると思う。

「おかま」が笑いをとれる時代、そういうくくりだった人々が笑われる時代の終わりは近づいているのだ。

彼らは実は稀有な存在ではないし、アバンギャルドに見せようとしているわけではないという事実が分かったからである。

 

だからやっぱり「おかま」なんて言葉をまだ使い続けようってのは時代錯誤である。

そこに悪意があるかどうかはあまり関係ない。

そういう言葉の存在自体に議論が巻き起こる時代なのである。

それに不快に思う人がいるんだからやめておくべきなのだ。

LGBTの人々の気持ちになってみろ、とかそういうことは言いたくない。

だって、100パーセント理解してるかと聞かれたら私も自信がないから。

それにそういった人々を敬えとか、えらいんだぞとか、そういうことも思っていない。

だけれど同じように生きる誰かを、言葉一つ存在させることで辛い思いにさせるということ、これはとにかく良いことじゃない。

こういう理由で、私は「おかま」という言葉に抵抗を感じるのである。

 

そう遠くない将来、今小学生くらいの子供たちが大人になって社会に入っていく時、

世界でのLGBTに関する議論は今の流れのまま引き続き白熱していることだろう。

自動的にそこに身を投じていく彼らなわけだから、言葉の扱いへの敏感さは持たせておかねばならないはずだ。

にも関わらず、手本となる大人が考えなしに「おかま」発言するのはどうなんだろう。

 

 変わっていく世界の空気の中で、古い価値観が子供たちを置いてぼりにさせてしまうことはあってはならないと私は思う。