色んなことを雑に書くブログ

大学3年生女子が色んなことについて雑に書きます

怒られた時にすぐ泣かない方法

私は誰かに怒られたり、注意されたりするとすぐに涙が出そうになるタイプである。

別に泣いて許しを請おうとしているわけじゃないし、

泣けばそれでいいなんてまるで思っちゃいない。

泣いて許された経験ばかりで生きてきたわけでもない。

ほとんど条件反射的に涙があふれそうになるので結構困っている。

色んな本を読んでみたり話を聞くとこれには小さい頃の経験が関係しているようなのだけど、過去に戻ってやり直すことなどできるわけもなし。

でもこのままでは絶対に良くないと感じているので、

自分なりにこの現象を分析して改善させてみようとして今も頑張っている。

具体的には「怒られる」ということがどのようにして私の感情のキャパを超えさせているのかを考え、そこから改善法を編み出した。

本記事ではそれについて書こうと思う。

 

1.怒られた時のファーストインパク

今までのことを思い返してみれば「なぜ自分が怒られているのか」よりも、

「あっ、○○さんに私は怒られている....!」という、ただこれだけが最初に頭にあった気がする。

「怒られているという事実」が何よりのショックなのかもしれない。

その瞬間、それ以外についてはたいして何も考えていなかった気がする。

これがまず良くない。

だから私は一呼吸して最初のショックをなるべくスルーし、

「なぜ怒られているのか」、そして「それにより困っている相手」を思うことに努めている。

 

2.私にとっての「怒られる」とは

私は無意識に、「怒られる」ということを世界の終わりレベルの絶望のように感じているらしい。

また、普通に接してくれていた人が突如怒りモードに突入することに恐れを抱いているらしい。

でも、冷静になって考えてみればそんなもの日常の一コマとしてはありふれているし、人間なら誰だって場合によっては怒りを持って接してくる。

きっと同じ瞬間に同じように怒られている人は日本中にいる。

怒られることは大事件なんかじゃない。

どうせその失敗なんて周りは一週間後には忘れているし(みんな一人の人間に長いこと構っている暇なんてない!)、どんな気にしいの自分でも一年後には確実に忘れているぐらいのもののはずなんだし。

これに対処する時に思うのは、「こういうこともあるのだ」ということ。

人間ばかりの社会で何か役割を担えばたまにゃ失敗して怒られることもある。

こういうこともあるのだ、と。

 

3.「怒られている自分」を見たくない!

別の自分Bとして怒られる自分を見る感覚が私には常にある。

恥ずかしくて惨めで自分が世界一バカに思える。

しかしやっぱり冷静になってみると、これもまた利口な思考ではないと分かる。

怒られて済むぐらいのささいなミスが自分の価値を無にすることなど絶対にありえない。

そんなことで人の価値は簡単に上がり下がりすることはないと思う。

えらい先生も何かの本でそう言っていたし、やっぱりそうなんじゃないだろうか。

だから私はそういう風に思っておくことにしている。

 

 

とこんな感じで、すぐに泣かない自分になろうと努力しているしだいである。

これができたらあとはもう失敗を繰り返さないようにすればいいし、

家で泣きたくなったらそれはもう別に泣いていいと思っている。

あとはほんのちょっと、「なにくそ!」と腹の底で鼻を鳴らして笑い飛ばす気持ちが持てたら完璧でしょう。

 

 

新しいバイトを始めようかと思ってるんで覚書的に記事にしてみました。

飲食店+友達の紹介ってことでかなり今からビクビクしてるので。

しかも上のほうで「怒られた時は」って何回も書いてるけどのんびりしたバイトしかしてこなかったんで言うほど他人に怒られたことってなくてめちゃくちゃ怖いっす。

友達に注意されたりしたらおそらくまた地獄級に落ち込むんだろうけど、自分で書いたことを思い出して頑張ります。

というか、まずは注意されないようにするのが先か。

とにかく同じような皆さんも一緒に頑張りましょう。

真面目に気楽に!

「おかま」は死語になりつつある

今日、こんなニュースをみた。

 

www3.nhk.or.jp

 

LGBTに当てはまる子供がいるのにも関わらず「おかま」という言葉を使ったことが問題らしい。

それより私は「おかま」という言葉のチョイスそのものがもうおかしいと思う。

 

「おかま」って言葉、日本では馴染みのある響きである。

日常会話でもテレビでもよく聞こえていた。

ただ最近ではこの言葉が差別用語ではないかとの議論も盛んで、多くの人々、もちろん当のLGBTに該当する人も声をあげている。

確かに「おかま」っていう言葉が使われる時って、

男性の動きや声が女性っぽいのをバカにしたり笑ったりする時がほとんどで、

この言葉が対象を「ネタ」としてはたらかせているのは明らかである。

こういうことでは差別用語だとみなされても仕方ない。

傷つく人がいるのも分かる。

ということで最近ではテレビ等メディアで「おかま」が聞こえることは少なくなってきている。と思う

 

LGBTの存在が世に広まる前まで、彼らはそうでない人々にとって「なんだかわけのわからん変なやつ」だったのだろう。

しかし近年彼らとそうでない人々の関わりがより自由に、双方向になったことでその認識は変わりつつある。

彼らが同じように息をし、食べている実感は、この10何年くらいの間にじわじわと高まっていると思う。

「おかま」が笑いをとれる時代、そういうくくりだった人々が笑われる時代の終わりは近づいているのだ。

彼らは実は稀有な存在ではないし、アバンギャルドに見せようとしているわけではないという事実が分かったからである。

 

だからやっぱり「おかま」なんて言葉をまだ使い続けようってのは時代錯誤である。

そこに悪意があるかどうかはあまり関係ない。

そういう言葉の存在自体に議論が巻き起こる時代なのである。

それに不快に思う人がいるんだからやめておくべきなのだ。

LGBTの人々の気持ちになってみろ、とかそういうことは言いたくない。

だって、100パーセント理解してるかと聞かれたら私も自信がないから。

それにそういった人々を敬えとか、えらいんだぞとか、そういうことも思っていない。

だけれど同じように生きる誰かを、言葉一つ存在させることで辛い思いにさせるということ、これはとにかく良いことじゃない。

こういう理由で、私は「おかま」という言葉に抵抗を感じるのである。

 

そう遠くない将来、今小学生くらいの子供たちが大人になって社会に入っていく時、

世界でのLGBTに関する議論は今の流れのまま引き続き白熱していることだろう。

自動的にそこに身を投じていく彼らなわけだから、言葉の扱いへの敏感さは持たせておかねばならないはずだ。

にも関わらず、手本となる大人が考えなしに「おかま」発言するのはどうなんだろう。

 

 変わっていく世界の空気の中で、古い価値観が子供たちを置いてぼりにさせてしまうことはあってはならないと私は思う。

時をかけるおもちゃ

幼少期、数あるおもちゃの中で最も私に憧れを抱かせたのは電子玩具だった。

具体的に言うとその電子玩具とは「おもちゃの携帯電話」とか「おもちゃのパソコン」の類である。

 

タカラトミーが販売していた「ミメルシリーズ」はまさにその「おもちゃの携帯電話」。

そのうちの一つ「スタイリッシュミメル」は、リサイクルショップにて破格の安さで入手したものだったが私に多くの夢を見せてくれた。

いわゆるガラケーの形をしていて、モノクロの液晶画面にボタンが本物同様配置されている。

付属のカードを介して同じおもちゃを持った人とメール交換ができるほか、手帳や占い、ゲームができた。

こういった「本物そっくり系電子玩具」の何がよかったかというと、

ごっこ遊びの質を究極まで上げてくれたことである。

「ミメル」はエクストリームごっこ遊びを叶えてくれた存在だったのだ。

何ごっこかというとそりゃ大人ごっこである。

まず操作するにあたっての動作が本物っぽい。

携帯電話を片手で開いたり、両手をそろえてパソコンのキーを押したり、手帳を閉じる時の感じだったり、とにかく使うものが本物っぽければ動作も大人のそれと似る。

そんな自分に快感であった。

またそういう大人っぽい見た目の機械を自分が占有しているという感覚がいい。

スッとポケットから取り出す時の優越感たるやすごいものがあった。

そしてやはり電子玩具でできることが本物っぽかった。

当時の私にとって例えば「メール」なんて響きだけでも高尚なもののように感じた。

子供でも、子供なのに、メールできちゃう...!かっこいい...!な私であった。

でも別にメールに限ったことではない。

例えば2000年代からもう少しさかのぼる時代に存在した「おもちゃのポケベル」。

調べたところボタンを押すと音が鳴るという仕様だったようで、

もうそれタバコの箱でも持って「ピーッ」とか言っとけばいいんじゃと思われるかもしれないがやっぱりそれっぽい機械のそれっぽいボタンを押すとそれっぽい電子音が流れることに意味があると思う。

少なくとも私はそれで興奮できたはずだ。

 

それから時は経ち、今ではスマホでメールはもちろんのことゲームは無限にある中から選び放題だしショッピングだってできるようになった。

だが、おかしなことにまだ私は電子玩具を想っている。

「パソコン おもちゃ」などと画像検索しては1人エキサイティングしている。

 

思うに、小さな頃の快感が依然として体に残っているからだろう。

おもちゃの域を出ない範囲で最大限の大人ごっこができる楽しさ。

おもちゃだからこそ面倒もなく、大人のかっこいい部分だけ纏っていられるのだ。

無意識に私はこれを味わおうとしているようである。

大人に片足突っ込む一方でおもちゃに思いを馳せるとは一見矛盾しているようだけど、

私はそこに整合性を感じてしまう。

 

 

ちなみにそんな私が数年前から注目しているのはセガトイズ販売のスマホ型おもちゃシリーズである。

この5月に販売が開始された「Mepod」なる代物はミニゲームはおろか写真もカラーで撮れるうえその写真を加工することも可能、チャットやメッセージの送受信等も行えるらしい。

エクストリームごっこ遊びはさらに進化している。

最近は小学生でもスマホを持つ子は多いけれど、こういうのを欲しがる子がやっぱり変わらずにいるのはなんだか嬉しい。

子供が考えることや嬉しい楽しいと思うことって本当に不変なのかも。

 

CDを聞くということ

Amazonプライムミュージックの存在により、

最近スマートフォンに音楽をダウンロードすることが多くなった。

映画の曲だとか、とにかく有名な歌手·バンドの有名な曲、特に海外のそういった音楽は手に入りやすい。

おかげで好きな曲ばかりいつでも聞けるようになった。

好きな曲ばかりである。

しかしそれが最近なんだか物足りない。

なんでかって、好きな曲ばかりだからである。

 

デジタルミュージックは一曲単位でダウンロードすることができるから、なかなかアルバムごとダウンロードしようとはならない。

スマホの容量も気になる。

だから選りすぐりの、もともと好きだった曲ばかりが揃うことになるのだけど、

CDを買ってアルバムで聞いていた頃より特定の歌手やバンドにハマることがなくなった気がする。

それがちょっと退屈なのだ。

 

小学生の頃が一番色んな音楽に興味をもって聞いていた時代だったかもしれない。

まだ子供で自由にダウンロードできる環境になかったので、とにかく聞きたい曲があればレンタルCD店やブックオフなんかに走った。

そしてその一曲が入ったCDを探してとりあえず買うなり借りるなりした。

勉強中にBGMとしてまるまる流していると、目的の一曲の他にピンとくるのがさらに見つかったりする。

他にたくさんCDがあるわけじゃないから限られたものを何度も何度も通して聞くことになるんだけれど、そうしているといつの間にか全曲そらで歌えるようになっていたりする。

そうしていると他にも聞きたくなるので、また違ったアルバムを買ってはやっぱり同じように繰り返し聞くのだった。

そんな中人生で初めて本当にファンになったのはaikoで、もう10年近くライブに通うほどである。

今でも新曲が出れば欠かさず初回限定盤を買う。

特にaikoのCDはカラートレイも素敵で、さらにアルバムにはある工夫が施されていることからおかげでCDそのものを集める楽しさも覚えた。

その他にも私にとってこれ!というアーティストは複数いて、彼らが私の音楽体験やそれ以外の部分にも影響を与え続けている。

 

こういった"ハマる"体験が今の私にはほとんどない。

好きな曲ばかり聞くことが自分を刺激的な場所から遠ざけることになるとは想像もしなかった。

今のうちにこの状態を脱しなければ。

アルバム一枚聞く気力が完全に失われてからでは手遅れである。

 

でもやっぱりダウンロードするのは手軽でやめられない。

というかこの手軽さはこの試みにぴったりなんじゃないだろうか。

店に出向くのが億劫で挫折することもなく、欲しいアルバム一枚が一分もかからずに入手できる。

おお、こりゃ私にとっての新時代の幕開けだ!うん、やっぱりダウンロード最高!

 

ということでSDカードの調達から始めようと思う。

またCDを集めたくなるような存在に出会えることを願う。

ワクワクするドラマがみたい!

(※ドラマ「やまとなでしこ」「恋ノチカラ」のネタバレをしているのでこれから見る予定の人は注意)

 

 

 

私はいわゆる"ドロドロ"したドラマが苦手だ。

だから例えば「昼顔」なんかは私の守備範囲じゃない。

極端に振りきったドロドロ系ドラマ(「不機嫌な果実」とか「ずっとあなたが好きだった

」みたいな)はちょっと笑えるのでわりと見るけれど、リアルさを追及した作品では落ち込んでしまう。

上戸彩ちゃんが悲しい思いをして泣いたりするのか、と思うとこっちまでガーン...なのである。(ちゃんと見たことないので本当のところは知らない。)

逆に好きなドラマといえば、

具体的に例をあげると松嶋菜々子堤真一の「やまとなでしこ」とか

深津絵里と(またも)堤真一の「恋ノチカラ」とかである。

私好みのドラマに共通するのが

 

·主人公がわりと平凡(という設定)

·主要人物がそんなに若くない

·みんないい人

·で、恋愛ドラマ

·だけどくっつく予定の二人がすんなりくっつきそうにない

 

というポイント。

そして私にとって特に重要なのが3つめの「みんないい人」。

例にあげた二つのドラマは本当に悪役が出てこない。

(厳密に言えばドラマの一要素として出てこないこともないのだけど、

いわば特別ゲストであってその事件が済めば妥当な理由で消えていくので気にならない。)

それにどんなわだかまりも解決される。

やまとなでしこ」で桜子(松嶋菜々子)にさんざん利用されて振られる東十条さん(東幹久)も、「やまとなでしこ」と「恋ノチカラ」の両方で堤真一に振られる矢田亜希子も最後にはちゃんと笑顔で出てきてくれた。

なんて後味がいいんだろう。

 

確かにこんなのありえなさすぎる。

.....だけどやっぱりドラマくらいは夢がみたい!

 

こういう私の感覚は古臭いんだろう。

上記の作品が今の時代にやっていたらSNSで叩かれたりするのかも。

それにこういったドラマがうまくいってたのって役者さんの力量のおかげもあったような気がする。

役にはまれる人が多かったなぁ、なんて素人なりに思う。

堤真一って「やまとなでしこ」ではさえない魚屋の息子で

恋ノチカラ」では将来有望なクリエイターだけど交互に見てもごっちゃにならないくらい演じ分けができている。

みんながその人にちゃんとなりきっていないと夢物語は成立できないんだろうなぁ。

 

ああー!それでもやっぱりドラマでワクワクしたい!

誰か作ってくれないかなあああ。

 

タナトフォビアで生き生きする

タナトフォビアという言葉をご存知だろうか。

これは日本語で死恐怖症を意味する。

分かりやすく説明すると死ぬの怖い病(そのまんま)。

私は2014年の春と今年の春にタナトフォビアになった。

それまでの経緯は特に面白くないので省くが、とにかくこれが大変だった。

四六時中「この世界の不思議さ」と「自分が死ぬ」ということの不条理を考えてはプルプル震えて過ごしていた。

2回ともその調子が約2か月続いた。

答えのない自問自答になるので抜け出すのが非常に難しく本当に辛かった。

考えないようにしても無理で、ご飯は味がしないし、というかもう見えている世界がなんだか嘘のようで人間らしく生活するのが困難だった。

自分で思い返しても私のあの時の様子は異常だった。

 

ただ、2度タナトフォビアになったことで私はそうなる前よりずっと生き生きと暮らしている。

生きて色々な経験ができることを心から嬉しく思うし、ささいなことにとらわれて時間を無駄にすることもなくなった。

あの時間は決して無駄ではなかったのだ。

 

当時の私は「この恐怖を忘れて早く昔の自分に戻りたい!」と思っていた。

テレビや音楽で気をまぎらわしたり無理やり賑やかな場所に出かけたりしてみた。

しかしそれを過ぎれば恐怖はひょっこりと戻ってきてほとんど意味を成さなかった。

それどころか賑やかな場所にいるとさらに悲しみを感じた。

そんな時、私は一冊の本と出会った。

森田療法」という神経症の治療法に関する本だったのだが、この治療法を編み出した森田正馬氏自身が子供時代から死への恐怖を抱いていたとの記述があったので、

何かためになることが書いてあるかもと思って読んでみた。

私は病院へ行ったりして正式に森田療法を受けたわけではないので

森田療法でタナトフォビアを克服した」ということにはならないのだが、

この治療法におけるコンセプトと森田正馬氏の死というものに対する最終的な見解がとても役立った。

まずそのコンセプトというのがおおまかに言うと「恐怖に立ち向かうこと」と「恐怖はとりあえずそのままにしておいて生活する」というもの。

それから私は恐怖にどっぷりと浸かった。

一日中、本当に一日中「死」について考えた。

もちろん精神的にへこんだが逃げたままでいるよりかはスッキリした気がした。

そして恐怖を抑え込むことなく生活するスタイルに切り替えてみると、案外そこに慣れてゆくのだった。

加えて森田正馬氏の「死はやっぱり人間にとって怖いものだ」という見解は私をいくぶん開き直させてくれた。

そういう風にして過ごしているとだんだん恐怖することに疲れはじめ、日常の人間活動における忙しさが勝ってくる。

その結果、いつの間にやら私はタナトフォビアでなくなっていた。

そして死の恐怖に必要以上にとらわれなくなった私は逆に「生」を考えるようになった。

 

「怖がりぬく」ということが私には足りなかったのかもしれない。

1度目のタナトフォビアが終わったのは私が思うにただ受験勉強が忙しくてなんとなく忘れていたためであった。

しかし2度目の凄まじさが示しているとおり、私の1度目のタナトフォビアに対する向き合い方は不完全だったのだ。

2度目で「怖がりぬいた」おかげで「死」に対して莫大なエネルギーを使うことの途方もなさに気付き、「生」を思うという新たな境地に達することができた。

タナトフォビアなしではおそらくそんな風になれなかったと思う。

タナト様様である。

 

こんな経験を経て、今私は生き生きしている。

 

(補足)

森田療法の本」のくだりだが、興味を持った人のために書いておくと私が読んだのは

講談社現代新書出版·北西 憲二著の「はじめての森田療法」である。

さらに誤解や混乱を招かないように言っておくと、本記事はタナトフォビアの治療法を紹介する記事ではない。私の森田療法の解釈には誤りがあるかもしれないし、私が克服したプロセスが万人に通用する治療法であるとは言えないということを心に留めておいてほしい。

森田療法については自分で調べてみてください。

私は「体育嫌い」の「スポーツ好き」

スポーツ庁の「スポーツ嫌いな中学生をいまの16パーセントから半分にする」計画が今ちょっと話題。

体育の授業もスポーツ嫌いの一因になっているだろうという所から、

かつて「体育嫌い」の少年·少女であった大人世代からも色々と意見が出ている。

 

かの私も中学生の時は「体育嫌い」だった。

今も一応大学生で、それは続いている。

でも同時に私は「スポーツ好き」である。

友達と市民体育館で5時間ぶっつづけのバドミントンをしたこともあるし、

バッティングセンターでは120キロ球のホームランを目標としているし、

体を動かすというくくりで言えばダンスをするのも好きだ。

おかげさまで健康的に過ごせていると思う。

 

じゃぁなぜ「スポーツ」は良くて「体育」はダメなのか。

それは私の受けた「体育」が機械的×雑という最悪の掛け合わせだったからである。

 

授業である以上、成績をつけなくてはならないので最終的な達成目標が設定されるのはしかたがない。

でもそこまでの技能習得の過程における、何週目にはこれをして何週目にはこれで、という機械的な進行は運動が苦手だった私には苦痛だった。

ドッジボールの球をどうやって受け止めればよいかが分からなかったし、

バスケットボールではコート内をどう動いてよいやらという感じだった。

でもみんなはすでに難なくこなしていて焦る。

そんな風にエキサイティングする仲間の間であわあわしていると、

誰かが「先生!試合やりたい!」などと言い出す。

子供たちのキラキラした目で汗をかきかきお願いされると折れたくなるのだろう。

思いがけないタイミングで、先生はかなり早めに私たちを「試合」の段階に突入させるのだった。

試合の中で私をはじめとする「運動苦手民」は邪魔者扱いをうける。

疎ましく思われているのが分かるからできる風に見せようとするも、そうした動きがさらに「運動できる民」の足手まといになる。

まぁ確かに、ゴールするわけでもなく、それどころかコートで挙動不審にちょこまか動くのだから邪魔だと思われるのも分かる。

ただ、私は好きで妙な行動をしていたわけではないのだ。

どうしてよいのか本当に分からなかったのだ。

 

こうした苦しみをよそに、

運動苦手民ってとにかく邪魔、ダサい、ダメ みたいな図式はできあがっていく。

いたたまれない気分だ。

自分が恥ずかしい。

そんな中で追い打ちをかけるように先生は悪魔の一言を発するのだ。

「できる人ができない人に教えてあげよう。」

いやいやいやいやいやいや

そこまで求めちゃダメでしょう!

「サッカー楽しーーー!!!!!」

「活躍したるわーーーーー!!!!!」

「けど運動できない人いてなんか邪魔ーーーー!!!!」

な状況の子ども達にそんな余裕はないはず。

さらっと「仲間と協力しよう」ぐらいのテンションで言うけれど、それ、かなーり難しいことではないだろうか。

それに運動できる民が運動苦手民を理解するのって、ただ思いやりがあればいいとかそういうのとはちょっと別次元のところにあると私は思う。

結構プロっぽい知識とかが必要なんじゃないかな。

とにかく子供同士でうまくやれ、というには無理がある。

 教える子も、教えられる子も、どっちも戸惑ってしまう。

 

というわけで、私の受けた「体育」は機械的であり雑だった。

スポーツなんて楽しくなくて、自分がみじめな思いをするだけだった。

 

こんな私が「こうだったらよかったなぁ」と個人的に思うポイントは、

·基礎練習に時間をかける

·試合に重きを置かない。

の2点である。

基礎練習をたっぷりさせてもらえれば、その時間の中でゆっくりでもコツはつかめていく。

段階を小さく刻めば先生も生徒の(技術的な)問題点を指摘しやすいのではないだろうか。

そうして自分なりの「あ、できる。」がたまっていくと何かのタイミングでそれは楽しみに変わる。

実際に私はそれを体験した。

例えば友達と遊びでするバドミントン。

ただひたすらにラリーを続けつつお喋りしているだけだったのだが、それが基礎練習的に働いてなんとなく苦手なりにコツをつかんだ。

羽は当たるし、真ん中にヒットすると気持ちがいい。

ラリーが結構続く。

私、バドミントンできるほうなのでは....と心地よい勘違いさえしてしまう。

今ではバドミントンは好きなスポーツの一つである。

私に付き合ってくれた友達に感謝。

 

なぜに体育の授業があそこまで試合を重視するのか私には正直分からない。

試合をできるようになるのが最終目標だからだろうか?

でもそれって、「そこにいるみんながスポーツに楽しみを見出す」ということより大事なのかなぁ。

私にはどうもそうは思えない。

だって体育はスポーツ教室とは違うんだもの。

 

「体育嫌い」の私だけれどスポーツは好きだし感謝している。

気分も明るくなるし、健康的なダイエットには最適だ。

それに大抵あまりお金をかけずに楽しめる。

メリットは多い。

だから「体育」が「スポーツ嫌い」を増やす一因にはなってほしくないのである。

逆に子供たちの人生にスポーツという選択肢を与える機会であってほしい。

「体育嫌い」の「スポーツ好き」はそういう風に思う。